高校生時代、スタメンに抜擢された。それまでのサ−ドポジションの人からイジワルがり、やめようか、逃げてしまおうかと真剣に悩んだ時がありました。
それを耐えての初優勝、優勝祝賀会での時、イジワルをしていた子から呼び出されその同級生から、「ごめんね、そしてありがとう」と言われ、初めて自分自身もその子に謝っていなかった事に気づきごめんね、と抱き合いながら泣いて優勝を讃え合いました。
良き思い出があります。
- 高校卒業後、ユニチカへ
ユニチカ監督が宇津木氏の自宅で、父親に彼女はすぐにでもレギュラ−になります・・・と伝え、反対の父を説得しユニチカ行きを了承してもらった。
自分と東日本NO1ピッチャ−2人で東京駅を出発仕事と練習の日々、仕事は総務部(トイレ掃除等)を泣きながら仕事を進めていた。
こんな事ばかりの仕事で嫌気もさしていた、ソフトがしたい、その為にユニチカへきたんだと。練習は、社会人と高校生のレベルの違いをまざまざと痛感しました。
数か月後ユニチカに来た父と母、父が監督へ「明日娘を連れて帰る」と伝え、その晩、宇津木氏は父へ「3年待ってください」と懇願した。
それからは、先輩のプレ−を盗み、練習もだれより声を大きくだしアピ−ルを続けたある時、先輩が捻挫で1週間休むことになった、宇津木氏はチャンスだと思い、なりふり構わず体を張ってアピ−ルした。
人はそれぞれ違うんだ、それをアピ−ルし見出してもらうことが重要だと。
そういった、経験をユニチカでしてきました。
人を知り、人を学べたのもユニチカの13年間でした。
- ルネッサンス高崎工場(12名の選手)からオファ−があり悩んだ。
父からは、「お前が監督をやるなら結果をださないとダメ、時には親として、監督として、用務員にもならないとだめだぞ、そして見返りを求めるな」強く愛されるチ−ムを作りたいと強く想い、年明けに監督を正式に受諾しました。
- 宇津木氏「高崎チ-ムの夢はなんだ?」
- 選手「1部リ−グ昇格です」
- 宇津木氏「自己中心的なプレ−はダメだぞ」
常に選手の先頭を務め、選手と正面から向き合った。次に、選手の自己分析をさせた、ノ−トに選手が記載したことを宇津木氏が確認、アドバイスを記載、チ−ムづくりを始めたのであります。
すぐに結果は表れ、3部から1部に昇格できました。現在1部リ−グで30年戦っている強いチ−ムとなりました。ですが、やはりライバルがいたからがんばれたのでもあります。
太陽誘電でした、よきライバルで絶対太陽誘電には負けるなよと常にいっておりました。
- アトランタ五輪では、コ−チとしていきました。
さあ、今度は世界だと・・・ルネッサンス選手は全日本メンバ−になるんだと。
そこで、会社の了承をつけ、2週間海外試合を組ませてもらい、海外選手の分析をしてまいりました。そこには日本選手との違いがはっきりしておりました。
海外選手は、目的をしっかり持ち、練習、トレ−ニングをすべて自分の意思で動いており、日本選手は指示待ちであるという受け身の姿勢が違いとして大きく見分けられたことです。
それからは、個々が動けるチ−ムづくりをしました。
97年ソフトボ−ル協会から、全日本の監督としてオファ−があり受諾しました。98年応募99名のうち22名を選出(高崎の選手は全員選出)
協会からはクレ−ムをつけられたが、この子たちは絶対やってくれるという自信があった。
98年 シドニ−への切符を掴む。もう一度セレクションがあり77名中15名を選出しました。ここからのチ−ムづくりは、日本のため、ソフトボ−ルの為に犠牲心をもとう。
そして、ソフトボ−ルをメジャ−にしよう。チ−ム内でもライバルができ、達成感もありみんなが一つになることができた。
リ−グ戦は全勝、決勝で最後レフトがエラ−をしてしまった。負けたあと、トイレでその選手が出てこない所に、宇津木氏「お前のエラ−で負けたんだぞ」すると選手たちは「みんなのエラ−です」その時宇津木氏は、「私のエラ−だったんだと」きづかされたのでした。
- アテネ五輪
シドニ−メンバ−が7人新メンバ−が8人加わり新チ−ム結成、結果は銅メダルでした・・・
リ−ダ−の責任でした。自分を見失いました、シドニ−の時はがむしゃらに選手と向き合いました。しかしシドニ−以降は常にカメラがあり自分をかざっていたのでした。
本当に選手と向き合ったのかと自分に問いかけました。いい時は寄ってくる、悪くなると去っていく・・本当の応援者は悪い時こそ側にいて応援してくれる人だということも勉強しました。
しかし、私のチ−ムには上野がいる、北京で夢を叶えてもらおう。それからは、寮で上野に毎朝「お前が投げなきゃダメだぞ」すると、上野は「はい、大丈夫です」これが上野の18番の答えなのです。
上野には、「投げなきゃダメなんだ」「謙虚になれよ」「周りに取ってもらわなきゃダメだぞ」「点をとってもらわなければダメなんだぞ」「勘違いすんなよ」と、いつも伝えておりました。
そして、北京での決勝戦で上野は指がえぐれておりました。なぜ、413球投げれたのか・・・1球1球に「これは総監督のために」「この1球はベンチのひとたちのために」
もし、自分の為に投げていたら勝てなかったですと言ってました。
そして、上野が金メダルを、私の方に高くかざし「監督ヤッタヨ!」と口が動いているのがはっきりわかり、解説をしておりましたが嬉しくて涙が止まりませんでした。
本当に選手に育てられました
今あるのは、自分だけじゃないのです。
逃げちゃダメ絶対あきらめない、強い人間になってほしい。
本当の愛情は悪い事に対して、その時その場にしっかりと怒れる事だと思います。
御清聴ありがとうございました。
謝 辞 沼田ロータリークラブ次年度会長宮澤孝幸
チームワークは人づくりで努力を続ける大切さを再確認いたしました。青年会議所の明るい豊かな社会、ロータリーの超我の奉仕、どちらにも通じ、力を合わせ心一つにしたチームワークで社会に貢献してまいりたいと思います。
先生の益々のご活躍とソフトボール界の発展をご祈念申し上げます。